京都造形芸術大学

京都造形芸術大学×東北芸術工科大学

東北芸術工科大学

藝術学舎

※受講生登録済みの方

受講生番号

パスワード

パスワードがわからない方はこちら

連載コラム

vol.9 上村 博( 京都造形芸術大学芸術教育研究センター長、京都造形芸術大学教授)

|

>一覧に戻る

vol.9 上村 博

著書『身体と芸術』(昭和堂/1998年)

著書『身体と芸術』(昭和堂/1998年)

上村先生が登壇したイベントの様子

上村先生が登壇したイベントの様子

共編著『芸術環境を育てるために』<br />
(角川学芸出版/2010年)

共編著『芸術環境を育てるために』
(角川学芸出版/2010年)

現代社会において、先生が日常感じられることの中で、足りない(欠けている)と感じられることにどのようなことが挙げられますでしょうか。

世の中には大変なことが日々生じています。天災・疫病はいうまでもありませんが、人間が引き起こす暴力、貧困、差別、不人情などは、現代社会にかぎらず、人間が、社会があるかぎり、宿命的につきまといます。物質文明や人間の過剰な欲望のもたらす弊害といったものは、現代特有のものではありません。古代以来、これでもかというくらい何度も自然破壊や他者の搾取は行われてきています。ただ、現代は、少なくともそうした問題が問題として感じられる時代です。そしてそれこそが現代特有の問題でもあるでしょう。あるいはむしろ依然として「近代」の問題かもしれません。

「近代」は、特定の時代区分というより「近代性」として古くからあったと思います。「近代」や「近代性」の定義はさまざまにありうるでしょう。そのひとつとして「私」と「今」の意識が生じるところ、というものを考えても良いと思います。今を生きる私が、過去とのギャップを感じ、そしてまた他者との違いを意識するところに「近代性」を見て良いかもしれません。そのような「個」の意識は、自由の根拠です。しかし同時に不自由さを、不満を、不幸の根拠でもあります。この自由と裏腹の不自由が、古来からある災厄(天災も人災も)を耐えがたい悲惨なものにします。手つかずの海岸が埋め立てられようと、昆虫の大群が自殺しようと、高性能ロボットが破壊されようと、さらには生死を超越した聖人が殉教しても、それは悲惨ではありません。今を生きる私という個人が、自分の欲望や希望や生命を大切にしつつも、しかしそれが損なわれる場合があるからこそ、大変なのです。美貌を神に妬まれて災厄の箱を空けてしまったパンドーラには、最後に希望が残りました。しかしその希望こそは災厄のもとです。この神話は今現在の話でもあります。

そうした「近代の問題」に対して、「芸術」が役立てること(「芸術」を学ぶ意味)とはどのような点にあるとお考えでしょうか。

芸術は調停術です。妥協の技術です。近代の「私」がさまざまな困難を克服するための妥協です。勿論、妥協といっても、各所に気配りしてほどほどの仕事をすればよいという意味ではありません。それは生きる行為と同じです。生命はさまざまな困難を乗り越えるために、いろんな物質を身にまとって自分の形を作りました。時には失敗もありますし、ひょっとしたらまだ作りかけなのかもしれません。しかしいずれも一所懸命に生きようとして形を作っています。生き物の形は世界と生命との調停の結果です。芸術はその延長です。人間が自分の身体のはたらきを補い、延長しようとして身の回りの世界に働きかけることです。そこでは当然調停が生じます。しかし手抜きがあると妥協すらできません。その妥協のすべを学ぶのは、余技ではないと思います。

先生は、これからの社会を生きる上で大切にすべき視点(=美意識)をどのような点にあると考えますか?

美意識は「好み」ではなく、価値の認識です。価値を認め、評価しようとする態度といっても良いかもしれません。それは不自由な情況を追認したり、現状に居直ったりするのではなく、ものごとの別のありかたを構想する意欲です。芸術活動の動機そのものです。勿論、そんなものがあると、不満が生じたり、仕事が増えたりと迷惑なことも多々あります。しかしそれがないと、出来損ないの人間社会はますます窮屈になり、救われません。

最後に、これから「芸術」を学ぼうとされている方へ、エールをお願いいたします。

おおげさなことを書いてしまいました。でも自分の考えや技は、自分の身体の細胞と同様に、衰える一方で日々更新されてもいます。いつも自分は作り替えられている、そして生きている限り、その作り替えに自分自身が関与できる、ということを念頭に置いて、できるところから変えていきましょう。

|

カートを見る

日本芸能史

サイトマップ